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2014年10月22日 (水)

なんでもアリな世界


こんなの見つけた。

ホワイトヘッド記念美術館(アメリカ、テキサス州デル・リオ)

どんなところだろう。

ボストンのハル島と世界の終わり(world's end)のあいだの、マサチューセッツ湾にそそぐ川の河口の風光明媚な砂洲のへりには、ホワイトヘッド・アヴェニューという閑静な住宅地があるらしいけど、ここにA.N.ホワイトヘッドが住んでいたわけではなさそうだ。

いろんなモノがあるわけだ、この歴史的現実の世界には。

御大ホワイトヘッドには、Modes of Thoughtという楽しい本があるけれども、このタイトル、『思考の諸様態』って、要するに、いろんな考え方があるわけだ、ということだな。考え方いろいろ。それは、ホワイトヘッドの思考がとりとめもなくなんでもアリということばかりではなくて、現実世界がそもそもなんでもアリなのだから思考も多彩になるということだろう。

生成しては消滅する出来事の推移の多様性。

しかし、現実の出来事の多様性よりも、はるかにはるかに多様多彩な、豊穣すぎて、もう何がなんだかわからなくなるようななんでもアリの多様性も考えられるのだ。わりと当たり前のことなんだけど、それを説明すると、2段構えの論法になっちゃう。

まず、現実の多様なもろもろの出来事。ホワイトヘッド博物館とか、いちばん最後に鉄橋を渡る有蓋貨車とか、先週の雨降りのしずくの1つ1つとか、黒部渓谷いっぱいに紅葉した森の葉っぱの1つ1つとか……

これが説明の1段目。

それらは、不可識者同一の原理によって、めまいがするほど多様多彩で、それらのいちいちひとつひとつは、胸がぎゅーっと切なくなるほど、そのつどそのつど唯一無二である。それらは、生成しては消滅する。伸びんとする生気がむせかえるほど満ちていて、下腹がどっと痛くなるほど、はかないのだ。現実に生起することどもは、どれも、永続することなく崩壊する運命を甘受する。現実の世界の多様性は、それらがあまねく消滅する運命から免れることができないということを超えられない。つまり、現実世界の出来事の豊穣な多様性は、生成と消滅のリズムの斉一性を超えられない。

パンタ・レイ……

だけど、どんな出来事が現実に生起するか、その潜在的可能性の次元を考えてみることができる。実現へと志向しつつも、実現されないまま潜在性のうちにとどまることどもも含んだ多様性。昨日、あの店の餡パンを食べられた俺。あのとき、あの人にあの一言をまっすぐに言えた俺。もしかしたら生まれてこなかった俺。ルビコン河を渡らなかったカエサル。地球の存在しない宇宙。これが2段目だ。

この潜在性のなかには、可能だったのに実現しなかったいろんなことも全部、含まれている。可能世界の、さらなる多様性においては、生成と消滅の斉一的なリズムはない。そこには、現実世界の多様性を包含してはるかに広大に広がっていく、真の多様性が秘められている。

思考の諸様態っていうときの、思考の「なんだってアリ」のその放埓さは、可能世界の無際限な多様性の反映なのだ。思考は、その放埓な多様性を、現実世界に実現する出来事の多様性から引き出してくるだけではなくて、むしろ、この可能世界の際限のない豊饒さと現実世界の限定された多様性とのコントラストから引き出してきているのだ。

だからこそ、思考の多様性のうちには、確かに、生成し消滅する現実世界の不可避的な推移を超え出ていく、超時間的な性格が、あるのだ。そして、それこそが、思考のアクチュアリティなのだと思う。

僕らが今、常識的に現実とみなしていることがらに対処できるような仕方で思考のさまざまな構図を整理してアレンジすることが、哲学に求められているアクチュアリティだと思ったら、おおまちがいなのだ。常識的な現実の多様性の根っこのしたに、おそろしいほど豊饒な無限の多様性が控えていることを看取し、それを単なる妄想だの夢物語だのにしてしまうのではなく、その多様性に人間的理性が耐えられるように構図化して思考することが、哲学のアクチュアリティである。

実現したものの多様性から、潜在的なものののさらなる多様性へと、生成消滅のプロセスを逆行し遡行すること。そして、潜在的なものどもの無限の多様性を、なんとかしてより十全に、より整合的に、より包括的に、理性的な構図によって汲み取ること。この遡行のうちで、現在の意味が立体化されて見えてくるのだし、同時的世界の見えなかった諸側面が開けていくのだし、それらが相働いていかなる未来になっていくかも見えてくる。潜在性へと遡行し、その多様性を構図化する思考の試みが成功する度合いに応じて、現在を見通すことも過去を受け取ることも未来を予期することもより深くより広くより明晰になっていくのだ。

なんでもアリな世界が、重層的になってるってこと。そして、純粋な潜在性でもなく、歴史的な世界の現実性でもなく、その中間みたいなところでいわば宙吊りになってる可能世界にこそ、些末なものから恐るべきものまで多種多彩なものどもの「なんでもアリ」が蔵されているってことだ。

そこに切り込んでいく思考の冒険。推論が推理になり、可能性を見ることが現実を見ることになり、遡源が予見になり、そうやって、めまいを催す多様性を構図化しちゃう、精神の冒険。

だから、哲学って、なんでもアリになっちゃう。でも、それって、すごいことなのだ。

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